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追悼 〜 中釜浩一郎さん〜

 中釜浩一郎さんが、2004年5月5日に急逝された。享年39歳。児童書の挿絵画家として活躍し、東京や故郷の鹿児島を中心に個展やグループ展も開催、また自宅やカルチャーセンターで絵画教室を持つなど、幅広く絵の仕事に取り組んでこられた中での訃報だった。

 中釜さんとやまねこ翻訳クラブは、「月刊児童文学翻訳」1998年11月号の「プロに訊く」コーナーで中釜さんにご登場いただいて以来、親しいおつきあいがあった。もともとは、@nifty時代の当クラブ会員だった翻訳家千葉茂樹さんからのご紹介。北海道在住の千葉さんが仕事で上京された際、千葉さんを囲んで行われる「オフ会」に中釜さんが参加してくださったのが始まりだ。インタビュー記事からも垣間見えるように、気さくでユーモアがありとても優しいお人柄。記事掲載後も、絵と翻訳(文学)という境界を越えてさまざまな交流が続いた。クラブ会員による作品展鑑賞、ご自宅で開かれている絵画教室とアトリエの見学、さらに2001年秋には、@nifty文芸翻訳フォーラム(当時)文化祭企画のひとつとして、中釜さんが手がけた翻訳児童書の表紙画、挿画の原画展を開催した。また、絵画教室の案内をウェブページ化し、クラブの関連サイトとして紹介もしていた。

 中釜さんがはじめて児童書の挿画を描いたのは、1987年『まぼろしのストライカー』(中川なをみ作/国土社)だった。理容師をしていたが体を壊し、昔から好きだった絵の仕事をしたいと、何度も何度も出版社に足を運んだ末のことだ。以来、作品によってタッチを使い分ける多彩な画風で、児童書を中心に数多くの作品の表紙画、挿画の仕事をしている。『エリコの丘から』(E・L・カニグズバーグ作/岡本浜江訳/佑学社)や、『見習い物語』(レオン・ガーフィールド作/斉藤健一訳/福武書店)は、繊細な線描にシンプルな着色が印象的な絵だ。一方で抽象画を思わせる『ドロップス』(ヤン・デ・ツァンガー作/天沼春樹訳/パロル社)や、劇画調の『ねこかぶりデイズ』(錦織友子作/小峰書店)、また『汽車にのって』(三輪裕子作/講談社)のような静かな風景画もある。
 子どもを描いた絵には、あたたかな視線と愛情を感じさせるものが多い。詩集絵本『わたし』(たかはしけいこ文/銀の鈴社)では、丁寧なデッサンとやわらかな着色でさまざまな子どもたちの姿がとらえられている。笑顔、得意そうな表情、涙をこらえた顔、遠くをみつめる目……。子どもの日常を綴った詩に寄り添う絵のひとつひとつに、「ああ、子どもってこういうときにはこんな顔をするものだな」と、微笑ましい気持ちになる。また、近作『走れ、走って逃げろ』(ウーリー・オルレブ作/母袋夏生訳/岩波書店)の表紙に描かれているのは、タイトルの通りこちらに背中を向けて走っている子どもの姿だ。少し前のめりの姿勢で、それでもしっかりとした足取りでまっすぐに走る後姿は、「逃げ」ているというよりは何かを目指して進んでいるようにも見える。物語は、ナチス・ドイツ占領下のポーランドで逃亡生活を続けるユダヤ人少年が主人公。けれども決して悲しくつらいだけの話ではない。物語を読み終えて再び表紙の絵に戻ったとき、このタイトルにこめられた意味を、中釜さんの描いた少年の後姿が語りかけてくるように思える。

 こうした本の仕事のほか、グループ展や個展でも作品発表の場を広げていた。絵画教室では、その人柄からさまざまな年代のメンバーに慕われ、絵を描く楽しさを伝えていた。まだまだ多くのすばらしいお仕事をされるはずだった。本当に残念でならない。亡くなられた当日は、故郷の鹿児島にある画廊で個展が始まる、その日でもあった。

 やまねこ翻訳クラブとして、心からご冥福をお祈りするとともに、多くのすばらしい作品と楽しい思い出に、何よりも感謝の気持ちを捧げたい。

(中村久里子)

 

 

感謝のことばにかえて

 中釜浩一郎さんとの交流の中でも、とりわけ深く印象に残っているのは、絵画教室の見学と2001年に開催した原画展です。絵画教室に通っていた会員と、原画展を中心になって企画、運営した会員による文章をここに添え、中釜さんへの感謝のことばにかえたいと思います。

 

〜「絵画教室キララ」での中釜浩一郎さん〜

 故・中釜浩一郎さんは「絵画教室キララ」を主宰していた。小学校低学年から第二の人生を楽しむ高齢者までが集う、活気溢れる教室だ。生徒の好みや目的に合わせて課題や画材を変えつつ、毎回さまざまな作家の作品に触れさせる中釜さんの指導に、多くの生徒が絵を描く喜びを覚えた。年に1度開催される絵画の発表会の際には、皆、時間が経つのを忘れて作品を仕上げた。

 生徒には純粋に絵を描く楽しみを教える一方で、中釜さんは自分の作品に手厳しかった。挿絵やタブロー(一枚絵)を描く時の目つきは、教室での優しいまなざしとは対照的。真剣なのはもちろんのこと、どうすれば自分の想う世界を表現できるのか、常にもがいていた。また、声をかけるのもはばかられるほど、思い詰めたような時さえあった。

 文章表現である小説の世界を絵画で表現する挿絵や、無の状態から創造するタブローの仕事には、人には見えない苦労があったに違いない。美しい白鳥が水面下では必死に水をかいているように、人の心を打つ作品を世に送り出す陰には、大きな産みの苦しみがあっただろう。仕事である以上、発生する納期や交渉、評価という壁。これらの壁を越えつつ、満足の行く作品を仕上げるのは並大抵のことではない。そういう意味で中釜さんはまさに命を削って絵を描いたと言える。

 中釜浩一郎さんは、児童書の読者や絵画教室の生徒を始め、多くの人々の心を打つ作品を残した。新作を見ることはできないのは残念だが、感動をもらった一人として、心からご冥福をお祈りするとともに、感謝の気持ちを捧げたい。

(瀬尾友子)

 

〜〜中釜浩一郎さん原画展をふりかえって〜〜

  2001年11月、やまねこ翻訳クラブは、「中村悦子・中釜浩一郎 原画展 〜海外児童書の世界を描いて〜」を2日間にわたって開催する機会に恵まれた。大好きな本の原画を、仲間たちと一緒に見ることができたら――そんな思いを、日頃親しくさせていただいていた中村さん、中釜さんにお話ししたところ、おふたりが快く原画を貸してくださったのだ。当日は一般にも公開して、たくさんの人に見てもらうことができた。

 中釜さんからは、『エリコの丘から』(カニグズバーグ作/岡本浜江訳/佑学社)、『狼がくるとき』(バウムゲルトナー作/天沼春樹訳/佑学社)、『見習い物語』(ガーフィールド作/斉藤健一訳/福武書店)、『最後の授業』(ドーデ作/桜田佐訳/偕成社)の4作品から19点の原画を貸していただいた。このうち『狼がくるとき』の表紙絵と、裏表紙の夜空に浮かぶ満月の絵、そして『最後の授業』の表紙絵の3点はカラー作品、それ以外はペン・鉛筆で描かれた挿絵。その全てが黒のマットを配して額装されていた。静かな、まっすぐに語りかけてくる絵――わたしたちは、原作を思い出しながら、中釜さんの世界を味わい、語り合った。

 手探りしながらなんとか開催にこぎつけた、小さな原画展であったけれど、大好きな絵に囲まれて、わたしたちはとても幸せだった。今思い出しても、それはどんなものにも代え難い時間だったと思う。

 中釜さんは、初日の飾りつけの際、わざわざ会場に顔を出してくれた。少し緊張しているわたしたちを激励し、そして、いつものように冗談をいって笑わせてくれた。「みんなに喜んでもらえて嬉しいよ」その笑顔が、何よりのご褒美だった。「やまねこさんたちは、ほんと、よく頑張るねえ」その言葉が、今もわたしたちを前に進ませてくれている。中釜さん、本当にありがとうございました。

(植村わらび)

 


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