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●特別企画●やまねこ翻訳クラブ読書会レポート
シヴォーン・ダウド作『すばやい澄んだ叫び』を語る
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7月のある金曜の夜、18名のやまねこ会員が、Zoomを利用したオンライン読書会に
参加しました。課題書は、昨年末に刊行されたYA小説『すばやい澄んだ叫び』です。
前半は各参加者による感想の発表、後半は、訳者の宮坂宏美さんと訳文チェック協力
者の中村久里子さん(ともに当クラブ会員)それぞれのトークという2部構成での開
催でした。企画を立てた会員が、レポートいたします。
◆課題書紹介
『すばやい澄んだ叫び』シヴォーン・ダウド作 宮坂宏美訳 東京創元社
2024.12 328ページ ISBN 978-4488011437
"A Swift Pure Cry" by Siobhan Dowd, David Fickling Books, 2006
1984年、アイルランド南部の村に住む15歳の少女シェルは、病死した母に代わって、
家事や弟妹の世話に明け暮れていた。父は仕事を辞めて酒浸り。食べるのがやっとの
貧しい暮らしで、シェルは必要な衣類を買うことすらままならない。慰めといえば、
幼なじみの少年デクランや同級生の少女ブライディと過ごす時間ぐらいだったが、や
がて妊娠してしまい、孤立していく。事態は思わぬ方向へ進み、さらなる苦境に立た
されて……。実際に起こった2つの事件に着想を得て創作された、カーネギー賞受賞
作家シヴォーン・ダウド(1960-2007)のデビュー作。
■参加者による本書の感想
(これから本書を読む人の楽しみを奪わないよう、物語の核心部分にふれていない感
想のみご紹介します。また、参加者が全員女性だったことを書き添えておきます)
全体的に多かったのは、前半は読むのがつらかったが、後半は次々とページをめく
ったという感想だ。
◎望まない妊娠という重いテーマなので、読み始めるのに勇気が必要だったが、語り
の力のすさまじさのおかげで一気読みした。
◎子どもがひどい目に遭う物語は苦手なので、前半は休み休み読んだ。後半は怒りに
震えながら読むうち、感情を揺さぶられた。
◎読むのがしんどい部分もあったが、大事なことを訴えてくれている作品で、読み進
めたいと思わせる力があった。
◎ある登場人物について、この人はいい人なのだろうか、いい人でありますようにと
いう思いで読み進んだ。ミステリーの要素もあり、後半は一気読みだった。
◎厳しい内容だが、シヴォーン・ダウドの作品は温かいという信頼感があったので、
つらい展開もわりと安心して読めた。
ヤングケアラーとして厳しい暮らしを強いられた上に望まない妊娠をしてしまった
少女と、身勝手な男性たち。そのギャップにふれる発言も多かった。
◎どうしようもない父親にイライラした。なぜシェルは、あんなお父さんの面倒を見
ることができるのだろう。
◎男性の身勝手さに振り回される女性という構図が、田舎ならではと感じた。
◎望まない妊娠をして苦しむシェルと、直接関わっている男性側の意識の差はいった
い何なのだろうと感じた。
◎相手の少年はのほほんと生きていける。そんなことも現実にあるのだと思わされた。
無責任、身勝手、あるいは権威的な男性の登場人物たちへの憤りの声が聞かれたが、
必ずしも全否定ではない。以下のような発言もあった。
◎シェルのお父さんについて、最初はひどすぎると思ったが、人間らしさがあって、
完全には嫌いになれない人物だった。デクランも同じ。
◎男性が「強くあらねば」という価値観を持つ中で、お父さんの弱さを書きだしてい
るところがよかった。
◎このお父さんは、屈折しているけれど、彼なりに妻子を愛している。
◎お父さんにはしっかりしてほしいが、急に配偶者を亡くしたら……と考えると、た
だ責めるわけにもいかない。
◎貧困率の高い地域で育ったので、こういうお父さん、いるんだよなあと思う。許せ
ないけれど、愛情がないわけじゃないので憎みきれない。
母親の死によって生活が立ちゆかなくなり、いつしか妊娠までしてしまったシェル。
同様のことは、どこでも起こり得る。80年代のアイルランドが舞台であり、カトリッ
ク色が強い作品にもかかわらず、普遍性を感じたという声が多かった。また、厳しい
現実を描いた物語の中の温かさと、作者ダウドへの思いが多く語られた。
◎シェルと同じように苦しむ若い子たちは、今でもいると思う。そういう子たちがつ
らさを打ち明けられる環境にしてあげたいが、どんなふうに声をかければいいのだろ
うと考えさせられた。
◎温かい心を持つ登場人物がいたおかげで、読者としても救われた。
◎悲惨な話だけれどどこか温かく感じるのは、全体を通して大きな愛情が存在してい
るからだと思う。
◎シェルはたいへんなことを乗り越えてしっかり生きていくだろうという希望が感じ
られる。
◎勧善懲悪の物語ではないと気づいた。そこはちょっと腑に落ちない部分もあるのだ
が、人に対するダウドさんの愛があるのかなと感じた。
◎現実をそのまま書いているからこそ問題提起になっている。むしろ下手な勧善懲悪
になっていないところに作者の強い思いを感じた。
◎実際の事件の新聞報道だけだったら、妊娠した子は悪い子で、自業自得だと思われ
るかもしれない。ダウドさんの書き方は子どもに寄り添っている。どこまでも子ども
の味方。
教会での場面も多く、キリスト教色が濃い作品なので、宗教や信仰に関わる発言も
多かった。
◎信仰心の揺らぎは、どんな人にも訪れる可能性がある。そこがしっかり書かれてい
ると感じる。
◎宗教は、苦境にある人に救いの手を差し伸べてくれるものであってほしい。この本
の中ではそうでないことがすごく残酷。
◎シェルにとって信仰は、家族を大切に思うことと同じなのだろう。教会に失望する
ようなシーンもあるが、信仰について伝えてくれる話。
訳文を賞賛する声とともに、訳者の苦労に思いを馳せる参加者も少なくなかった。
キリスト教色の強さや詩の引用の多さなどから、翻訳者泣かせの作品だと想像できる。
読書会後半では、翻訳作業について、当事者のおふたりから具体的なお話を伺った。
■訳文チェック協力者の役割
ここでは、訳文チェック協力者の中村久里子さんのお話をご紹介する。シヴォーン
・ダウドが大好きなので、宮坂さんに協力を求められて光栄だったという中村さん。
調べ物が大量にある作品だとわかっていたので、それを手伝うつもりでいたが、宮坂
さんから訳文を受けとった時点で、調べ物はほぼ完了していた。一緒に渡された調べ
物ファイルの充実ぶりに、驚嘆したという。
中村さんの役割は、原文と訳文の突き合わせ作業。既に完成に近い原稿だと感じた
が、これは誤訳だなと思ったことのひとつが、序盤に出てくるお菓子の名前。〈コー
ヒーとクルミケーキ〉と訳されていたが、ご本人曰く「食べものについてはめざとい」
中村さんは、正しくは〈コーヒー味のクルミケーキ〉であろうと気づき、指摘した。
訳文の組み立て方や、訳語の選択などについても助言した。
「初稿の段階では特に、訳者は一文一文に深く向き合って訳すので、視野が狭くなる
ところがどうしても出てきますよね。だから私は、ちょっと引いたところから全体の
流れを見るよう心がけて読みました」
とはいえ、全体の完成度が高かったので、助言といっても、重箱の隅をつつくよう
な感じだったという。
「本ができあがってから一読者として読んだときに、本当に素晴らしい作品だと実感
して、いいお仕事をさせていただいたなと、しみじみ思いました」
■訳者による翻訳裏話と作品への思い
「訳すのがたいへんそうだとみなさんがおっしゃってくれましたけど、メチャメチャ
たいへんで!」で始まった宮坂さんのお話。出版決定を知らされて喜びに浸るも、次
の瞬間には「やばい! 私に訳しきれるだろうか」と、不安にかられたという。そこ
で、知り合い3人に協力を求めた。1人は前述の中村久里子さん。また、やはりやま
ねこ翻訳クラブで知り合った翻訳者の池上小湖さんにも突き合わせをお願いした。も
う1人は、アイルランド人の英文校正者ブレンダン・ドイルさんだ。ドイルさんには、
アイルランド特有の単語や文化的なことについての質問に答えてもらった。その総数
は100を超えたという。英語のネイティブ・スピーカーである池上さんからは、辞書
の言葉を信じただけでは気づけないニュアンスを教えてもらった。
多くの会員にとって大先輩である宮坂さんだが、「どんどん突っ込んだり質問した
りしながら聞いてくださいね」と、ざっくばらんでフレンドリー。きちんと準備をし
た上でわかりやすく話を進めてくれるし、画面共有機能を使って調べ物のファイルを
見せてくれる。実際の原稿を見せながら、訳出作業を効率よく進める工夫も教えてく
れる。とにかく寛大で、情報伝授を惜しまない宮坂さんなのだ。
『すばやい澄んだ叫び』を訳すことになった経緯は、訳者あとがきに記されているの
でここには書かないが、15年以上前に自身が書いたシノプシスを読み直したとき、こ
れは本当に良い作品だと改めて気づいたという。
「10代の望まない妊娠というのは、問題提起の必要性がある大事な大事な問題だし、
これは社会に出すべき本だと感じました」
どんなところが難しかったかという参加者からの質問には、「全部です」という答
え。訳書が100冊を優に超える宮坂さんが、これまででいちばんと感じるほど難しい
作品だった。聖書や詩の引用の多さもさることながら、作品全体が詩的なので、裏の
意味のようなものを読み取らねばならず、苦しんだ。逆に、訳すのが楽しかったのは、
シェル、弟、妹の3人のやりとりだった。訳了し、刊行されたときの達成感は大きか
った。
「この本を世に出したことに大きな意味があると思っているので、自分としては何も
悔いはないっていうか、ちょっと大げさに言えば、自分の翻訳人生でやり残したこと
はないとさえ思えるぐらいの気持ちでした」
本書は、第1回「10代がえらぶ海外文学大賞」のノミネート作品に選出されている。
作品のテーマが重いので、多くのYA世代に読んでもらえるかどうか心配だったが、
ノミネートされたことで、10代の子たちに届く機会が増えると思うとたいへん嬉しい
し、ありがたい。宮坂さんはそう語る。
「共感できるところ、できないところ、人それぞれだと思うし、読み方は自由です。
むしろ、いろんな読み方がある本は、いい本なのかなと思います」
まだまだ紹介したいことはどっさりあるのだが、誌面が尽きそうだ。宮坂さんには、
いつか翻訳家としてのエッセイか何かを出版していただけたら嬉しい。
■終わりに
もともとオンラインで活動を続けてきたやまねこ翻訳クラブだが、コロナ禍を機に
Zoomを導入したのは大きな変化である。離れた土地に住む会員とも、画面越しに顔を
突き合わせて話せるようになった。今回の読書会にも、全国各地の会員が参加してく
れた。また、クラブ設立時から在籍している〈古ねこさん〉から今年入会した〈新ね
こさん〉まで、やまねこ歴さまざまな会員が集まったことにもワクワクした。
『すばやい澄んだ叫び』について、厳しい内容なので前半は読むのがつらかったとい
う感想が多かったのは事実だが、文章としてはたいへん読みやすいし、ストレスなく
読めるよう、訳注の付け方なども工夫されている。多くの人、特に若いみなさんが手
に取ってくれることを願う。
私がこの読書会を企画したのは、訳者さんの話を無料で聞けるという下心……では
決してなく、この作品について、ネタバレを気にせず、思いきり語り合いたかったか
らだ。それこそが読書会の醍醐味! ふと気づけば、毎年恒例のやまねこ賞読書月間
も近い。やまねこたちが活気づく季節がやってくる。
【参考】
▼東京創元社ウェブサイト内『すばやい澄んだ叫び』紹介ページ
https://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488011437
▼「10代がえらぶ海外文学大賞」ウェブサイト
https://www.10daikaigaibungaku.com
▼宮坂宏美ウェブサイト
https://h-miyasaka.jimdofree.com
▽シヴォーン・ダウド作品リスト(やまねこ翻訳クラブ資料室)
http://www.yamaneko.org/bookdb/author/d/sdowd.htm
▽宮坂宏美訳書リスト(やまねこ翻訳クラブ資料室)
http://www.yamaneko.org/bookdb/int/ls/hmiyasak.htm
(大作道子) |