やまねこ翻訳クラブ 注目の未訳書3 カレン・ヘス

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Karen Hesse, Out of the Dust

Scholastic Press, 1997.

Review by ワラビ、BUN、ベス

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 今年の1月12日に発表されたばかりの、最新ニューベリー賞受賞作。全編が、14才の主人公Billy Joの書いた散文詩でつづられるという、ユニークな形式の物語です。この本をやまねこの3人が読みました。

【あらすじ】(by ワラビ)

 1934年、大恐慌のさなかのアメリカオクラホマ州が舞台。この時代のオクラホマは、Dust Bowl(黄塵地帯)と呼ばれ、土壌の疲弊と干ばつによって連日大規模な砂嵐が起き、人々の生活が脅かされていた。

 そんな中14才の少女ビリー・ジョーは、このDust Bowlを逃れて西部へ向かいたいという望みを抱きつつも、ひとつの夢に支えられて毎日を送っていた。それは、ピアニストになること。彼女の家は貧しい農家だが、母がずっと大切にしてきたピアノがあり、それを奏でるのがビリー・ジョーの生き甲斐なのだ。

 ところがそんなビリー・ジョーの家で、ある日恐ろしい事故が発生し、彼女は心身共に深い傷を負う。ピアノを奏でる大切な手は思うように動かなくなり、事故の原因を作った父との間には、埋めがたい溝ができる。彼女はどのように心の傷をいやし、再び立ち上がるのか。

 生命を脅かす砂嵐が、つらい運命を象徴するかのように襲いかかる中、ビリー・ジョーはそれでも一条の光を見いだしてゆく……。

【感想】

BUN (~_~)ちょっと不満

 あらすじを読むと、なんてつらそうな物語なんだ! と思いますよね。私もホーンブックの書評を読んでそう思いましたが、実際に読んでみると意外に淡々としていて、あまり暗い気分にならずに読むことができます。

 ところが逆にそれが問題で、どうもこれだけきびしい運命の中で生きている少女の姿が、はっきりと立ち上がってこないのです。

 事故のあといくつかのエピソードがあって、ビリー・ジョーの心情は少しずつ変化してゆくのですが、大変な心の傷が癒されていく過程としては、いささかあっさりしすぎているように思います。別に泣いたりわめいたりせよというのではないのですが、一人の人間が暗闇からはい上がり、立ち直っていくのには、もっともっと色々な葛藤があるのではないでしょうか。

 それからこれは技巧上の問題なのかもしれませんが、一つ引っかかったのは、主人公が両手に大やけどを負い、肉体的にも精神的にも大変な苦痛にさいなまれながら、ちゃんと散文詩を書いているということ。こういうのは、どういう風に受けとめればいいのでしょうか? 以前にも書簡体の小説で、主人公が仲間を追って何の準備もなく砂漠にさまよい出てしまい、死にそうになりながら手紙を書いている(笑)というのがありましたが、どうもそういうのは、私の場合、物語に入り込めない要因になってしまいます。

 でも、amazon.comの読者書評欄では、熱烈に讃辞を送っている人も大勢いましたので、かなり好みが分かれる本なのかもしれません。

ベス (~_~)不満

 テーマが重い(重すぎるくらい)わりには、終わり方が簡単すぎるのではないか、というのが、読み終わった時の私の素直な感想です。

 あの事故を引き起こしたのは、実は半分はビリー・ジョー自身なのですが、そのわりには自分に対する罪の意識が、どうもあの散文詩の中からは伝わってこないような気がしました(父親に対する怒りは伝わってきますが)。自分の苦しい現状から、dustだらけの土地から逃れたいという気持ちは分かるのですが、それ以前に、あの事故による苦しみを主人公がどう受けとめているのかが、十分には書かれていないように思います。

 それから、最後に父親を許すきっかけになるエピソードも単純すぎる気がしました。父親を許すにしても、自分自身を許すにしても、もっともっと葛藤があってよいのではないでしょうか。

 もしかするとこれは、散文詩という形式のせいなのかもしれません。ワラビさんも会議室で『一人称の散文詩という形態なので、人物を浮き彫りにしていくというのは無理があるような気がします。ある程度昇華された形(?)でしか表わせませんよね』と書いておられましたが、確かに、三人称ではないので誰も背景を説明してはくれませんし、詩の形なので、主人公が思ったことを全部表現してくれるとも限りません。行間から背景や主人公の気持ちを汲み取っていかなければならないのかもしれませんが、私にはそこまで読み取ることができませんでした。普通の読み物でさえ、共感できる人とできない人がいるわけですから、詩となればますます難しくなるのではないでしょうか。

ワラビ (^.^)好感

 時代もの(1930年代、大恐慌、干ばつ)という設定と、一人称のしかも散文詩という形態が、この作品をとても特殊なものにしていると思う。

 人物・時代描写がどうしても甘くなるのは否定できない。個人的には、母と子、父と子の関係をもう少し書き込んでほしかったというのが、正直な気持ちだ。

 しかし、プラス面も評価したい。時代ものであっても読みやすい点、そして一人称の語りのため、読者が古くささを感じずに、主人公を等身大の身近な存在として感じ、時代を超えて共感できる点である。

 読者は、この時代の生活を、知識としてではなく、ビリー・ジョーの五感を通して感じることができる。説明だけの歴史の本や教科書にはない皮膚感覚は、時代を知る上で重要だと思う。

 またビリー・ジョーの感じる閉塞感は、現代の子どもにも共通するものではないだろうか。もちろん、子どもを取りまく状況はまったく異なるが、一人称の語りであるがゆえに、普遍的なテーマとして捉えることができる。”砂”は、親からの重すぎる期待かもしれないし、学校や社会の規則かもしれない。”ピアノ”は、サッカーかもしれないし、ダンスかもしれない。自由な想像が許される作品だ。

 最後の方で、ビリー・ジョーは砂嵐から飛び出す。そこからラストへの展開が、読者である子どもたちにどう受けとめられるのか非常に興味のあるところである。(ここも筋の展開としては弱さを感じたところなので少し心配ではあるけれど。)

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