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やまねこ翻訳クラブ 資料室
松永美穂さんインタビュー

ロングバージョン

『月刊児童文学翻訳』2010年7月号より一部転載


 今回ご登場いただいたのは、2009年やまねこ賞で絵本部門の大賞に輝いた『リスとはじめての雪』(ゼバスティアン・メッシェンモーザー文・絵/コンセル)の翻訳家、松永美穂さん。現在お勤めの早稲田大学の研究室を訪問し、児童書の翻訳や大学での講義などのお話をうかがいました。
 授業の準備などでご多忙な時間に、快くインタビューをお受けくださった松永さんに、心から感謝いたします。


【松永 美穂(まつなが みほ)さん】

 1958年、愛知県生まれ。東京大学大学院修士課程修了後、ドイツ、ハンブルク大学に留学。『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク作/新潮社)の翻訳で第54回毎日出版文化賞特別賞を受 賞した。著書に『ドイツ北方紀行』(NTT出版)、児童書の訳書に『ふしぎな家族』(ペーター・シュタム文/ユッタ・バウアー絵/長崎出版)などがある。現在、早稲田大学文学学術院教授。


【松永 美穂さん 作品リスト】

http://www.yamaneko.org/bookdb/int/ls/mmatsuna.htm

『リスとはじめての雪』

『リスとはじめての雪』
ゼバスティアン・メッシェンモーザー文・絵
コンセル



Q: ドイツ語を学ぶことになったきっかけを教えてください。

A☆ 大学時代、専攻を決める際にドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語の選択肢がありました。最終的にロシア語かドイツ語にしようと思ったのですが、どちらにするか決め手がなかったので父に相談したところ、「ドイツ語は日本の近代化の中で重要な役割を果たしてきた。それに、ドイツ語を覚えていたほうが、理系の人たちもドイツ語をよく使っているので、将来の就職に有利」とアドバイスされました。でも今は、医療の現場でカルテにドイツ語が使われることも少なくなったし、中国語が脚光を浴びているので、時代の先読みができていなかったと思うことがあります(笑)。


Q: 『翻訳家の仕事』(岩波書店)の中で、生野幸吉さんが訳された『三十歳』(インゲボルク・バッハマン作/白水社)に触発されたと書いてありましたが、どのようなことを感じられたのでしょうか?

A☆ ドイツ文学を学んでいた大学3年か4年のとき、さまざまな翻訳作品を読んでいてこの本を手にしましたが、ことば選びが独特で読みやすい文章ではないのが印象的でした。翻訳というものを初めて強く意識して、訳者名をチェックしたところ、私も授業を受けていた生野先生だと知りました。
 生野先生は詩人で、浮世離れしたような、一風変わった方でしたね。よく物をなくしたり、自分が持ってきたカセットレコーダーなのに、使い方が分からなくなって学生に助けを求めたり(笑)。


Q: 翻訳を始められたきっかけは?

A☆ 大学では生野先生のほかにも、翻訳家の池内紀さんや柴田翔さんが身近に先生としていらしたので、とても刺激になりました。先生方から声をかけていただいた執筆や翻訳を、「なんでも断らずにやろう」と思って引き受けていたら、すべて勉強になっていて、気がついたら翻訳の世界に入っていたように思えます。
 学生時代に「日独女性作家会議」という催しがあり、ドイツ語圏の女性作家たちが来日しました。私はその準備委員会に参加し、委員会で発行した文芸誌で、短編の和訳を手がけました。それが活字になった最初の翻訳でした。


Q: 初めての訳書『才女の運命 有名な男たちの陰で』(インゲ・シュテファン作/あむすく)は、どのようないきさつで出版されたのでしょうか?

A☆ 1991年にドイツのハンブルク大学に留学しました。その際についた先生が、この本の作者のインゲ・シュテファンさんでした。なんと私、初めてシュテファンさんに会ったときに、「この本を訳したい!」と言っちゃったんです。この先生につくからには、作品をきちんと読んで、訳して、日本に紹介することが、授業でお世話になることへの恩返しだと思いました。
 留学中に全訳しましたが、内容が女性たちの生き方についてのノンフィクションだったので、フェミニズムに関する書籍を出版したことのある出版社に見てもらおうと思っていました。でも当時は翻訳家としての実績も経験もなく、帰国したあと最初に持ち込んだところには断られてしまいました。それでドイツ人の友だちに相談したところ、ドイツの作品を出版したことがあって、スタッフが女性だけの出版社あむすくはどうかとアドバイスをもらい、そこに持ち込んで出版が決まりました。



Q: 最初の児童文学の訳書は、1996年に出版された『夜の語り部』(ラフィク・シャミ作/西村書店 ※本誌今月号「特別企画連動レビュー」を参照のこと)ですね。

『夜の語り部』
『夜の語り部』
ラフィク・シャミ作/西村書店

A☆ 出版社の西村書店がシャミのシリーズを出すことになったときに、池内紀先生を通じて翻訳のお話をいただきました。この本はページごとの多色刷りの装飾も、シャミの夫人が描いた表紙もきれいで、とても気に入っています。
 作者のシャミには、フランクフルトのブックフェアに行ったときにお会いしました。作品の雰囲気そのままに、よどみなく語られる方でした。

 



Q: 文芸作品の翻訳が多いですが、絵本を訳すことになったきっかけは?

A☆ 絵本の翻訳は2000年に入ったころから、ずっとやりたいと思っていました。ドイツの書店で気に入った作品を見つけて持ち込んだこともありましたが、それはもう日本での版権が取られていて。いい作品は、ボローニャやフランクフルトなどのブックフェアで版権の取引が行われているようなので、書店で見つけて訳してからでは遅いんだと痛感しました。
 そんなとき、フリーの編集者の柴田こずえさんがドイツ語の翻訳家を探していると、やはり早稲田大学で教えられている翻訳家の青山南さんにお聞きし、紹介してもらいました。それが『リスとお月さま』(ゼバスティアン・メッシェンモーザー文・絵/コンセル)との出合いでした。


Q: この作品はシリーズになって、すべて松永さんが訳されていますね。絵本の翻訳で、苦労されたことはありましたか?

A☆ ことば選びですね。『リスとはるの森』(同上)では「めいよと ほまれ」ということばを使っています。幼稚園くらいの子どもには分かりにくいかもしれないと思い、ほかのことばも探しましたが、中世の騎士道物語を意識して、最終的にこのままにしました。
 漢字を減らす努力もしました。小説を訳すときにはあまり気にしたことがなかったので、思いのほか大変でした。
 また、柴田こずえさんからは「声に出したときにどう聞こえるかも知ったほうがいい」とアドバイスされて、ふたりで交互に読み合いをしました。すごく新鮮な経験でした。


Q: このシリーズのリスとハリネズミとクマ、3匹の中でどの子が一番お好きですか?

A☆ 本によっても違いますが、やはり一番多く登場するリスくんでしょうか。あ、でも『リスとはるの森』ではハリネズミくんが気に入っています。
 リスくんはおっちょこちょいだけど友情に厚いですよね。それに対して、ハリネズミくんはちょっと内気な男の子で、クマくんはやさしい感じ。人間でも幼稚園にこういう子どもたちがいそうで、それぞれかわいらしいですよね。


Q: シリーズの続刊の予定はあるのでしょうか?

A☆ 今のところ、このシリーズはドイツでも3作までしか出版されていないので、分かりません。が、ドイツでも評判のいい絵本ですから、続きが出るかもしれませんね。気に入っている作品なので、続編が出たらうれしいし、もちろん訳したいです。


Q: 2007年に『車輪の下で』(ヘルマン・ヘッセ作/光文社)の新訳を手がけられた経緯を教えてください。

A☆ 『朗読者』のインタビューで知り合ったフリーの編集者の方から、光文社の古典新訳文庫にヘッセの作品を何か入れたいと聞いて、引き受けました。どの作品にしようかと迷いましたが、どうせやるのなら有名なものをと思いました。
 この作品は多くの訳書が出ていますが、読むと既訳の文章に引きずられそうだったので、読まないようにしていました。でも逆に、編集者はそれを参考にされていて、以前はこうだったのに、というコメントがよく来ました。


Q: ほかにも翻訳に苦労された作品はあるのでしょうか?

A☆ 『第三帝国のオーケストラ ベルリン・フィルとナチスの影』(ミーシャ・アスター作/佐藤英共訳/早川書房)では、ほかの人と自分の文章を合わせることなど、共訳の難しさを実感させられました。
 この作品は、2007年にベルリン・フィルの創立125周年を記念してドイツで出版されたそうです。日本でも2008年にベルリン・フィルの来日公演の予定があり、邦訳はそれにあわせて出したいと出版社から要望がありました。でも本が厚くて分量が多く、調べ物もたくさんあるので時間が足りないと思い、「ベルリン・フィルはまた来日するはずだから」と言って(笑)、出版を先に延ばしてもらいました。結局、出版社の希望より1年以上遅い出版になりましたが、じっくり取り組むことができました。


Q: では、これまで訳した中で好きな作品は?

A☆ ひとつに絞るのは難しいのですが、選ぶなら先ほどお話した『夜の語り部』と、『夏の家、その後』(ユーディット・ヘルマン作/河出書房新社)です。『夏の家、その後』は、どうしても訳したくて、持ち込んで出版された作品なので、うれしかったですね。大好きなユッタ・バウアーがイラストを描いた絵本『ふしぎな家族』も気に入っています。


Q: お気に入りの作家や画家はどなたでしょうか?

A☆ ユッタ・バウアーがすごく好きです。もちろん、メッシェンモーザーも。ただかわいいだけでなく、個性のある絵が好きですね。日本では赤羽末吉さん。子どものころ、赤羽さんの作品が多く掲載された「こどものとも」(福音館書店)をよく読んでいて、子どもが生まれたときに、父が赤羽さんの本をたくさんプレゼントしてくれたこともありました。


Q: 今後日本に紹介したい作家は?

A☆ 最近は、ドイツ語を母国語としない国の出身で、ドイツ語の作品を発表している作家にも注目しています。また、ドイツ語に訳されているけど、まだ日本には紹介されていない東欧のいい作品もたくさんありますよね。例えば、ハンガリー出身のケルテース・イムレがノーベル文学賞を受賞したときには、日本では彼の邦訳が1冊も出ていなかったんです。世界でも高い評価を受けている作品が日本で読めないのはもったいないと思いました。ドイツ語からの重訳になりますが、そんな作品の翻訳もやってみたいですね。


『マルカの長い旅』
『マルカの長い旅』
ミリヤム・プレスラー作
徳間書店

Q: 新刊『マルカの長い旅』(ミリヤム・プレスラー作/徳間書店)との出合いと、作品について教えてください。

A☆2004年にフランクフルトのブックフェアに行った際、偶然に徳間書店の編集者さんと同じホテルに泊まったんです。朝食の席でご挨拶したとき、「ご縁があったら一緒に仕事をしましょう」と話していたら、3年ほど前に「この作品を訳しませんか?」と声をかけていただきました。以前、ミリヤム・プレスラーのミステリー作品の、邦訳の出版検討に携ったことがありました。その作品の出版は叶わなかったので、今回実現できてよかったと思いました。
 この作品は実話に基づいた物語で、ポーランド南東部に住む7歳の少女が、母や姉と一緒にユダヤ人狩りから逃げようとするんですが、途中で熱を出して、見知らぬ家庭にひとりでとり残されてしまって……。初めて読んだ時にも衝撃を受け、訳しているときも心に重くのしかかってくる感じでした。日本の子どもたちが読んで、そのつらさを切実に感じてくれればと思います。


Q: プレスラーはドイツでは有名な作家であり翻訳家ですが、彼女の作品について、どうお考えでしょうか。

A☆ プレスラーはこの物語のように、迫害されたユダヤ系の人々が登場する作品を多く著しています。2005年に戦後60年を迎え、第二次世界大戦の生き証人が少なくなりましたが、ドイツでは戦争という負の記憶を風化させないよう、意識して戦争に関する本を出版してきました。『マルカの長い旅』も、そんな流れで生まれた作品のようでした。


Q: 松永さんは現在、研究者、大学の先生、翻訳家として多方面にわたってご活躍ですが、どのようにしてバランスをとられているのでしょうか?

A☆ 翻訳を始めたころは、時間があったのでじっくりと訳すことができましたが、今は大学、書評、委員会など多くの仕事があって、翻訳に使える時間が減りました。学期中は会議や授業で1週間に週に4日は大学に来て、また休みの日も授業の準備などで忙しくしています。そんなときは学校の仕事を中心にして時間を使い、翻訳は夏や春のまとまった休みにやるというように、切り替えています。


Q: 現在、大学で行われている翻訳ゼミのことを教えてください。また、どのような学生さんが参加されているのでしょうか?

A☆ ゼミでは私の経験だけを話せばいいというものではないので、教科書を使って翻訳の理論をきちんと教えようと思っています。教える立場なのですが、私も一緒に学んでいるように感じます。今は来年使おうかと思っているテキストに目を通しているところですが、厚くて難しくて(笑)。先日まで、『翻訳 その歴史・理論・展望』(ミカエル・ウスティノフ著/服部雄一郎訳/白水社)を授業で使っていました。翻訳全般についての入門書のような本で、英語とフランス語の比較が多いのですが、作者の考え方が理論づくしではなく、自由な感じでおもしろかったです。
 後期には未訳の絵本を1冊訳すことを課題にしていますが、選んだ本が未訳かどうかを調べるところから始めなければなりません。
 翻訳ゼミでは、課題には原則として英語の本を使用しています。学生たちの中には、将来翻訳家になりたい人や、出版社に勤めたいと思っている人がいます。難しい翻訳の理論を学ぶと、翻訳家や編集者なることは大変だと思うようですが、それを乗り越えて夢を叶えていってほしいですね。


Q: 今後のお仕事の予定を教えてください。

A☆ 翻訳では、7月に論創社から、オランダの作家セース・ノーテボームの作品が出版され、8月には新潮社のクレスト・ブックスから『黙祷の時間』(ジークフリート・レンツ作)が出版され ます。また、エッセイの『誤解でございます』(清流出版)も、7月に発売される予定です。大学が夏休みに入ったら、また新しい作品の翻訳に取りかかるつもりです。


Q: 翻訳を学習している、本誌の読者へのメッセージをお願いいたします。

A☆ 漠然と翻訳家になりたいというのではなく、「ぜひこの本を日本に紹介したい」と思えるような、いい本を見つけてください。ただ翻訳をやりたいというだけではきっかけもつかめないし、翻訳家としても個性が発揮できないかもしれません。思い入れのある本は、訳していて楽しいし、やりがいもあります。
 先日、トークショーで池内紀先生が、翻訳家を志願しているという方からのご質問に、「翻訳ほどむくわれない仕事はない。それでもぜひ訳したいと思う作品があるなら、やる価値はある」とおっしゃっていました。本当にその通りだと思います。




 インタビュー中に話題にあがった作品や資料を、まるで自慢の宝物のように、うれしそうに次々と書棚から出して見せてくださるなど、サービス精神が旺盛な松永さん。お話からは翻訳や研究に対する真摯さが伺われ、そのお人柄でさまざまな印象的な作品の翻訳に携ってこられたのだと思いました。


インタビュアー:井原美穂
2010-07-15作成

※本の表紙は、出版社の許可を得て使用しています

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